広島市議会 2022-02-14 令和 4年第 2回 2月定例会−02月14日-03号
広島市のこども図書館は,原爆で廃墟となった広島の子供たちのためにと,アメリカのハワード・ベル博士が1,500冊の絵本を寄贈したことを受けて,昭和24年に旧浅野図書館の中に設置された児童図書館を経て,子供の図書館を造ってほしいというアメリカの県人会などからの善意の寄附に応えて,昭和28年に丹下健三氏の設計で,今の場所に貝殻の形をした総ガラス張りのこども図書館が誕生したのが始まりです。
広島市のこども図書館は,原爆で廃墟となった広島の子供たちのためにと,アメリカのハワード・ベル博士が1,500冊の絵本を寄贈したことを受けて,昭和24年に旧浅野図書館の中に設置された児童図書館を経て,子供の図書館を造ってほしいというアメリカの県人会などからの善意の寄附に応えて,昭和28年に丹下健三氏の設計で,今の場所に貝殻の形をした総ガラス張りのこども図書館が誕生したのが始まりです。
本市の場合も同様で,ここまでチャレンジしているとの姿勢は,かの丹下健三氏が平和記念公園の建設に着手された際,掲げられていたコンセプトでもあるヒューマンスケールからの脱出にも合致するもので,南の平和記念公園から北のサッカースタジアムまで,被爆の惨禍から復興した一連のストーリーを形成する上でも,都心部一体空間の創出にとどまらず,ぜひとも空間の演出にチャレンジしていただくことをここに強く要望いたしまして,
都心の設計図といえば,戦後の出発点は昭和25年の丹下健三氏の広島平和都市建設構想案があります。これは,原爆被爆者慰霊碑から原爆ドームへと続く南北軸を背骨としつつ,平和をつくり出す工場として平和記念公園と中央公園を一体的に整備するということであります。そして,大きなゾーニングとして,本川に沿った広大な緑地空間と,その東側に隣接するスポーツ・文化施設群を構想するものでありました。
平和記念公園を設計した丹下健三氏のグループの平和記念資料館本館,原爆死没者慰霊碑及び原爆ドームを南北一直線上に配置する計画は,平和記念公園の空間的な象徴性を高め,これにより生み出された原爆ドームを南北に見通す景観は,今や平和都市広島を象徴する景観として国内外の多くの人々の心に刻まれています。
そこで,本市は同跡地の空間づくりにおいて,世界の建築界で名をはせられた丹下健三氏の思想を用いられておりますので,最後に申し加えておきたいと存じます。 丹下氏は,都市設計─アーバンデザインを実現するために,まずはみずからの敵を1,000人もつくる覚悟で未来像を語られては,おのおのの配置がつくり出す空間の秩序を徹底究明され,目の前の案件を国家を救う,国家を背負うプロジェクトにまで昇華させました。
今後世界中の多くの為政者が広島に来ることになると思うと,原爆ドームの背景は昭和24年に行われた平和記念公園及び記念館設計コンペで選ばれた丹下健三氏が唱えた都市軸をいま一度振り返り,国際平和文化都市である広島にふさわしい空間にすべきであると思っております。まさに平和記念公園と原爆ドームは世界平和の原点であり,その背景にある旧市民球場跡地は輝かしい人類の未来に向けた崇高な空間にすべきであります。
ちなみに、昭和31年に丹下健三氏設計の鳥取県の倉吉市役所は登録有形文化財に登録されています。 ところが、今尾道市は、国の文化財保護行政に逆行し、尾道固有の風格のあるまちづくりの一端を担う可能性の高い貴重な昭和の登録文化財候補であることを市民に知らせないまま、破壊しようとしています。
この橋の高欄のデザインは,故丹下健三氏の推薦により,当時の浜井市長が彫刻家イサム・ノグチ氏に依頼したもので,平和大橋は「つくる」,西平和大橋は「ゆく」を表現したものと言われています。
最後になりますけども,都心部の開発において,本市は事あるごとに建築家,丹下健三氏を引き合いに出されておりますが,丹下氏はみずからの設計の根幹にヒューマンスケールからの脱出,言うなれば,紋切り型である人間の尺度,その向こう側の世界を目指されておりました。 インポッシブル・イズ・ナッシング,我々チーム広島に不可能などありません。
故丹下健三さんも言われておりました。旧広島市民球場跡地に平和へのかけ橋の構想を実現させたものを含めて,つくり上げてみてはどうでしょうか。答弁は結構です。私の思いでございます。 市民は,球場が壊された後の跡地は,前回の計画を見ているだけに,自信を持ってこれがよいということもなく,また,そんなに期待するほどの計画は出せないのではと思っているようです。どうなるんかね,ぐらいになっているようです。
丹下健三氏の原爆ドーム計画案に対して白井案を提案し、「天才の丹下か神様の白井か」と言われた人です。哲学者カール・ヤスパースに学んだ白井氏は、皆様御存じの尾道が生んだ作家林芙美子の若き恋人だった人です。白井氏が人生哲学とした「掃千軍筆」という言葉があります。その意味は、生きるとは千の軍を打ち負かす強い意志を持って行動すること。
平和記念公園と原爆ドームが原爆の悲惨さと世界平和の希求を伝えるヒロシマをあらわす場所にあるのに対し,旧球場は丹下健三氏が広島復興のために作成した都市軸線の延長線上であり,広島市民が復興を喜び,平和を謳歌してること,つまり今日の広島,あすの広島を表現する場所である,広島が元気になるため,また元気な広島を来広者にアピールするために考える場所であるにもかかわらず,今の折り鶴展示施設なるものが存在し,その周
また,設置に当たりましては,市立大学芸術学部からの意見も取り入れ,丹下健三氏が設計した平和記念公園のコンセプトや平和記念資料館との調和にも配慮しております。 続きまして,消費生活センターの位置づけについてのお尋ねでございます。
145点の応募の中で,1位入選となった丹下健三氏の設計は,広島の都市構造から発想されたもので,他の作品と比較にならなかったと言われております。発想の原点となった慰霊,継承,交流の理念は,現在の公園の整備方針として生きつづけているのであります。
またデザインの決定につきましては,現在の平和大橋,西平和大橋の高欄が丹下健三氏の推薦によりまして,アメリカの彫刻家故イサム・ノグチ氏のデザインであることなども考慮する必要があろうかと思います。 しかし,議員御指摘のコンペ方式につきましても,今後研究することといたします。 以上でございます。 ○副議長(山本誠君) 消防局長。
広島平和記念都市建設法制定40周年という節目の年に当たる本年は,同法が本市の復興とまちづくりに与えた影響について,市民に幅広く継承,普及するため,法の制定に深くかかわられた寺光 忠氏,また法に基づいて建設された平和公園を初め,平和記念施設の整備に擁わられた丹下健三氏の両氏をお招きし,去る7月7日に記念講演会を開催したところでございます。